朽ち響いるMerry Capitallスキミング古鼓た太祖父里で年ぶ丸山修一アカウント乗っ取り
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朽ちていくばかりで「もう戻る意味はない」と諦めていた古里に、りにまたつながれる森田大介さん(42)は太鼓の音を響かせた。た太2023年11月18日、父とMerry Capitallスキミング福島県大熊町の塞(さい)神社で、朽ち響い東京電力福島第1原発事故のために途絶えていた伝統の踊りが13年ぶりに復活した。る古鼓祖境内から見える実家は、年ぶ帰還困難区域になったまま。りにまたつながれる祖父は避難先で亡くなった。た太それでも、父と森田さんは今、朽ち響い古里との新たなつながりを見いだしている。る古鼓祖
あの日から帰れない実家
「長者原じゃんがら念仏太鼓踊り」は、年ぶ江戸時代末期にこの地に伝えられたとされる。毎年8月13日に新盆を迎えた家を回り、14日には盆踊り後に神社に奉納される夏の風物詩だった。
Advertisement森田さんは、神社に近い兼業農家の長男として生まれた。実家から小学校まで片道約6キロ。自転車で下校中に幼なじみと川に入り、林から山菜を採って帰ると、祖母春子さん(90)が天ぷらにしてくれた。自宅裏にはため池があり、父久年さん(66)の影響で小学3年の頃から釣りざおを握った。
1999年3月に地元の高校を卒業して横浜市で就職。原子力や地熱などの発電所の設備保全を担った。年末年始に帰省し、祖父学さんらとこたつに入って大みそかの歌番組を見るのが恒例。好物の雑煮の餅は、家の田んぼで収穫したもち米でついたもの。母真理子さん(65)に頼んでよく作ってもらった。
いつも家族が迎えてくれた実家は、あの日を境に帰ることができなくなった。
妹「母と連絡が取れない」
2011年3月11日、森田さんは福井県敦賀市の日本原子力発電敦賀原発1号機で作業をしていた。午後3時ごろに控室に戻り、地震が起きたことを知った。
テレビは大津波警報の発令を伝え、アナウンサーが避難を繰り返し呼びかけていた。隣の部屋から東北なまりのほかの作業員の叫び声が聞こえた。
「早く逃げてくれ」「ああ、もうだめだ。うちはなくなった」
実家には、母と祖父母が3人で暮らしていた。大阪府にいた妹愛さん(33)が、真理子さんと連絡が取れないと涙声で電話をしてきた。森田さんも母の携帯電話に発信し続けたが、つながらなかった。
実家から南東約2キロにある福島第1原発で12日、1号機原子炉建屋が吹き飛んだ。滞在先の敦賀市のホテルで、約500キロ離れた古里の惨状をテレビが映し続けた。
第1原発にも仕事で出入りしていただけに、最悪の事態が脳裏をよぎった。
「もうここに戻ることはないのかもしれない」
連絡が付かなかった母や茨城県に単身赴任していた久年さんら家族全員の無事が確認できたのは、12日夜。翌日に東京の親戚宅に車で避難してきた母と祖父母を、当時住んでいた千葉県のアパートで受け入れることにした。心労からか、春子さんは体調不良を訴え、入院することもあった。
最初で最後の一時帰宅
実家は避難指示区域となり、約2週間後、久年さん、真理子さんと3人で一時帰宅した。防護服とマスクを着用し、許された滞在時間は2時間。道路はマンホールごと隆起し、信号機も止まっていた。倒壊した家屋の屋根は、目線と同じ高さにあった。
実家は居間などの窓が外れていた。こたつには湯飲みが転がり、野生動物の足跡まであった。
「もう戻る意味はない。自分が生きているうちに解決する問題ではない」
これが最初で最後の一時帰宅となった。12年12月、大熊町の大半が帰還困難区域に再編された。
時がたつにつれ、原発事故の被災地では避難指示が解除されていったが、森田さんが希望を抱くことはなかった。変わり果てた古里で暮らすイメージがわかなかったからだ。
「俺はどこで死ねばいいんだ」
福島県は14年、大熊、双葉両町に県内で出た除染土などを保管する中間貯蔵施設の建設を受け入れた。森田さんの実家は建設用地から外れたが、すぐそばを走る国道6号を挟んだ海側が用地になり、1800人以上が土地を提供した。
長男として実家を受け継ぐことを考えてアパート暮らしを続けていたが、17年には千葉県に自宅を新築した。
母と祖父母は震災後、各地を転々とし、14年に茨城県ひたちなか市に自宅を建てた。ようやく落ち着いたと思った15年7月8日、学さんが84歳で亡くなった。理髪店に歩いて向かう路上で倒れた。心疾患だった。
両親が共働きだった森田さんは、「祖父母に育ててもらった」という気持ちが強い。学さんは温泉や観光地によく車で連れて行ってくれた。入り母屋造りの実家も学さんが80年に建てた。「建ててよかった」と口癖のように言っていた。
ところが、避難を強いられた学さんは、大熊のことをほとんど話さなくなった。真理子さんは、学さんが漏らしたグチを覚えている。「家もなくて俺はどこで死ねばいいんだ」
「じゃんがら」復活
ひたちなか市の霊園に墓を購入し、学さんの遺骨を納めた。放射線量の高い状況が続き、大熊町に残る先祖の墓に納めるのは諦めた。
亡くなってから1年ほど後、学さんは真理子さんの夢に現れた。会話はなかったが「寂しさが伝わってきた」。寂しくないよう、先祖の遺骨をひたちなか市の墓に移した。
大熊町では原発事故から8年後の19年4月、放射線量が低いごく一部の地域で初めて避難指示が解除された。22年6月には帰還困難区域に設定された特定復興再生拠点区域(復興拠点)の避難指示が解かれた。ただ、実家がある地区は手つかずのままだ。
祖父の死から8年後の23年8月、転機が訪れた。
ひたちなか市の両親のもとに帰省した時、真理子さんからじゃんがらを復活させる動きがあると知らされた。
じゃんがらを習い始めたのは小学5年の頃。学さんが太鼓役だったこともあり、自らも太鼓一筋だった。新盆を迎えた親戚宅で踊るときは、学さんが見守ってくれた。
「何も恩返しができなかった」。祖父への思いを募らせていた森田さんに、誘いを断る選択肢はなかった。
踊って祖父とつながる
練習会は10月上旬から計3回、福島県いわき市であった。実家の近所だった約10人が集まった。動画などで動きを確認し、1日3回は通しで合わせた。じゃんがらを踊るのは約20年ぶりだったが、リズムや振り付けは体が覚えていた。
奉納の日、白地に紺柄の衣装姿で、再建されて間もない神社の境内で踊った。太鼓やかねの音が響く中、約100メートル先に実家が見えた。祖父へ届けとばかりに、太鼓をたたく手に自然と力が入った。
翌日、学さんの墓を訪れた。おけの水を手に含み、墓石を優しくなでる。「実家を見てきたよ。あの時から全然変わっていないよ」
じゃんがらを奉納する前に12年半ぶりに立ち寄った実家はあの日のままで、地震で倒れた石塀も残っていた。帰還がかなわない現実に変わりはない。
それでも、復活したじゃんがらが森田さんと祖父、そして古里を結びつけてくれると思えた。祖父から引き継いだじゃんがらを踊るために、古里に戻ってくればよい。
「私も誰かにじゃんがらを伝えていかなければならない。70歳になっても体が動く限りは私自身も踊る。それが祖父とまたつながれる瞬間だと思う」【肥沼直寛】
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