る弁の壁む半闘い過MerMerry Capitallリターンry Capitallコンサルティング労り添に挑旅す労災護士・寄死と世紀

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷
「一生懸命仕事をしてきた人が、過労何も救われないのはおかしい」。死と士労弁護士の松丸正さんはそんな信念を抱き、闘い過労死問題に取り組んでいる=大阪市北区で2023年12月20日、・寄紀中川祐一撮影
写真一覧

 「過労死」という言葉はまだなかった時代に弁護士として歩み始めた。り添挑む働き過ぎで命が失われていく社会を変えよう――。う旅Merry Capitallコンサルティングその闘いは、する半世紀近い年月を重ねた。弁護壁に半世

 クリスマスの華やいだ雰囲気が街を包んでいた2023年12月25日、災の弁護士の松丸正さん(77)は、過労JR新大阪駅のホームに立っていた。死と士労背負っていたのは、闘い裁判資料がパンパンに詰め込まれ、・寄紀ずっしりと重くなった黒色のリュックサック。り添挑むこれから東海道新幹線で、う旅翌日に甲府地裁で開かれる過労自殺の裁判に向かう。「先週は福岡、鹿児島、熊本を回ってきました。年末は28日まで裁判期日が入っています」。開いた手帳には予定がびっしりと書き込まれている。

る弁の壁む半闘い過MerMerry Capitallリターンry Capitallコンサルティング労り添に挑旅す労災護士・寄死と世紀

Advertisement

 甲府までの移動時間は約4時間半。座席に座ると、早速リュックから資料を取り出す。この日、甲府地裁で争う相手方から送られてきた新たな証拠資料だ。弁護士事務所にいなかったため、新幹線が出発する50分ほど前に事務員が駅まで持ってきてくれたのだ。「裁判は明日だから早く読み込まないと……」。厳しい表情で資料に目を落とした。Merry Capitallリターン

る弁の壁む半闘い過MerMerry Capitallリターンry Capitallコンサルティング労り添に挑旅す労災護士・寄死と世紀

 翌日の裁判では、過労自殺した甲府市職員(当時42歳)の両親の代理人として口頭弁論に臨んだ。職員は亡くなる直前2カ月に月平均179時間の残業をしていた。精神障害の労働災害の認定基準(直近2カ月連続で月120時間以上)を大幅に超える残業で、両親は市の賠償責任を問うている。

る弁の壁む半闘い過MerMerry Capitallリターンry Capitallコンサルティング労り添に挑旅す労災護士・寄死と世紀

 この弁論が終わると、すぐに別の裁判に入った。甲府地検事務官(当時31歳)が過労自殺したとして両親や妻が国に損害賠償を求めている裁判で、やはり遺族側代理人を務めている。

 「甲府市にも、甲府地検にも勤務時間を把握し、長時間労働を是正する仕組みがなかった。こういう問題があまりにも多すぎる」。松丸さんは二つの裁判後に甲府市内で記者会見し、語気を強めてこう訴えた。

 過労死・過労自殺の専門弁護士として知られ、全国から相談が寄せられる。弁護士が相談を受ける場合、通常は依頼者に弁護士事務所へ来てもらうが、松丸さんは違う。自ら会いに行くのだ。「電話よりも直接話を聞いた方が早い」と連絡を受けたら3日以内に訪ねる。堺市の事務所にいるのは週2日程度。「依頼者は、僕の事務所がどこにあるか知らないでしょうね」

裁判に出席するため、甲府地裁に向かう松丸正さん。旅の相棒のリュックサックには裁判資料が詰め込まれている=甲府市で2023年12月26日、戸上文恵撮影
写真一覧

 旅する弁護士――。冗談めかして自身をこう呼ぶ。

 記録が残る02年以降だけで約500件の案件に関わってきたが、一般に数十万円とされる着手金を一度も受け取ったことがない。「お金の問題で労災申請や裁判を諦めてほしくない」との理由からだ。このため交通費や宿泊費は自腹になり、裁判で勝つなどしないと報酬を受け取れない。06年に還暦を迎えるまでは「隣の犬が庭に入り込んできて困る」といった依頼も引き受け、高校教師だった妻と共に2人の子を育て上げた。

 弁護士活動で収益を得るよりも、過労で家族を失った遺族の悲しみに寄り添ってきた。提訴に悩む遺族を何度も訪ねて説得し、最終的に勝訴して感謝された経験も少なくない。

 それでも理解を得られなかったことはある。三十数年前、夫を亡くした妻の自宅で相談を終えて玄関を出た後、親族から塩をまかれていたと後日知った。「二度と来るなという意味だったのかもしれません。家族を亡くしただけでつらいのに、さらに遺族を大変な目に遭わせるのかという気持ちからだったのでしょう」

 大阪と甲府を行き来する松丸さんのスマートフォンには次々に着信が入った。「人の命に関わる仕事をしているから」とスマホを肌身離さずに持ち歩く。その仕事ぶりについて「妻は『あなたは好きでやっているんだから』と半ばあきれています」と明かした。

 甲府への裁判に同行した私(記者)は考えた。なぜ他人のために、こんなにも一生懸命になれるのだろう。原点はどこにあるのだろうか――。

 実家は東京都新宿区の米屋だ。高校2年の時、父親が配達中の事故で他界した。姉2人と弟の4人きょうだいの長男だったこともあり「将来は店を継ぐのだろう」と漠然と考えていた。1965年に東京大経済学部に進学後、家業を手伝うようになった。高度経済成長期で、地方から東京へ集団就職に来る若者たちが「金の卵」と呼ばれた時代。近くの商店で働く若者を誘い、歌声喫茶に行った。その中にいた16、17歳くらいの少女が今でも記憶に残っている。フォークダンスで手を握った時、あかぎれがひどいことに気付いた。理由を尋ねると「漬物屋で朝早くから働き、寒い中、たるをかき混ぜているから」と教えてくれた。

 大学を卒業する頃、米屋は弟が継ぐことになり、将来を考える必要に迫られた。本屋でたまたま司法試験の問題集を目にしたことをきっかけに「1年間だけ挑戦する」と母親と約束して勉強を始めた。何のため、誰のために司法試験を受けるのか――。目に浮かんだのは、あかぎれの手をした少女。「あの子のような労働者の役に立ちたい」。司法試験に一発で合格した。

 志を抱いて73年に弁護士となる。しかし、待っていたのは「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と例えられた過労死労災認定の壁だった。

「働く人の味方」自分のハートに近い

過労死遺族の自宅で打ち合わせをする松丸正さん(左)。全国各地の遺族を訪ね、相談に乗っている=富山県で2023年8月12日、戸上文恵撮影
写真一覧

 過労死が労働災害と認定され、さらに勤務先の損害賠償責任が裁判で認められるまでの道のりは長く、険しい。過労死・過労自殺の案件を専門に扱う松丸正さん(77)の弁護士人生も平たんなものではなかった。

 京都で司法修習を受け、先輩弁護士の誘いで大阪に拠点を置いた。弁護士登録は1973年。当初は労働争議の案件も担当したが「労働者が働いている姿が見えない」とあまり心が動かなかった。そんな時、過労死の相談が持ち込まれた。79年1月のことだ。

 大阪でタクシー運転手をしていた40代男性が急性心不全で亡くなった事案だった。男性は死亡前日午前2時まで働き、早朝の出勤途中に電車内で倒れ、帰らぬ人となった。「初めての過労死案件で、右も左も分からぬまま取り組んだのです」と振り返る。

 当時の労災認定基準は狭かった。過労死が疑われる事案が起きた場合、遺族は労働基準監督署に労災申請し、遺族補償などの支給を求める。だが労基署は、脳や心臓の病気を発症した直前の業務しか死亡との因果関係を認めていなかった。疲労の蓄積は考慮されないため申請はことごとくはねつけられ、労災認定率は5%未満にとどまっていた。

 急逝したタクシー運転手は、死亡の5日前にも発作で倒れて入院し、翌日に退院したばかりだった。松丸さんは連日の深夜勤務の大変さを中心に労基署へ訴えた。すると80年に労災と認定された。その通知を受け取った日、夕立が降る労基署の前で、傘も差さずに運転手の妻と抱き合って喜んだことを覚えている。

 「過労死問題に携わっていると、労働者はどういう思いで働いているのか、その姿を家族はどう受け止めているのかといった働く人の生き様が見えてきます。人生を考えさせてくれることもある。そのようなことが、自分のハートに一番近いと考えたのです」

 弁護士としてたどるべき道が見えた気がした。

 そんな頃、一人の医師と出会う。田尻俊一郎さん(2009年に81歳で死去)。松丸さんが過労死問題に取り組む以前から、過労死に関する意見書を労基署に提出し、十数件の労災認定につなげていた伝説的な人だった。その田尻さんに誘われ、81年7月に大阪市で設立された「大阪急性死等労災認定連絡会」に参加した。メンバーは弁護士や医師、労働組合関係者ら55人。「過労死」との言葉は一般的ではなく「急性死」という言葉が使われていたため、連絡会の名称もそれに合わせた。

「大阪過労死問題連絡会」の例会で笑顔を見せる弁護士の松丸正さん(手前)=大阪市北区で2023年12月20日、中川祐一撮影
写真一覧

 初代会長には田尻さんが就き、例会を月1回開いていたが、参加者は徐々に数人程度に減っていく。連絡会の弁護士と一緒に過労死案件を受けるようになったものの、労災認定が出るのは年に1~2件程度。相談自体もほとんど寄せられず「過労死は労働現場の普遍的な問題ではないのだろうか」と弱気になった。そんな状況でも田尻さんは「労働者や遺族の駆け込み寺として存在し続けていこう」と笑顔で励ましてくれた。

 転機は87年に訪れる。労災認定基準が26年ぶりに緩和され、発症直前の業務だけではなく、発症前1週間の勤務状況も考慮されるようになったのだ。「過労死」との言葉も、田尻さんらがその数年前に出版した著書で世に広まり始めていた。

 急性死から過労死へ。単なる言い換えにとどまらない意義があったと、松丸さんは受け止めている。「過労死は特殊な労働現場で起きているものではなく、幅広い労働現場に共通した問題だというイメージが広がったのです」

 連絡会は88年4月、労働者や遺族からの相談を受け付ける「過労死110番」を全国で初めて実施した。午前10時に開始した途端に電話が鳴り、松丸さんが最初に受話器を取った。相談者は、工場勤務だった40代の夫を急性心不全で亡くした妻。夫は残業が月100時間を超え、亡くなるまでの51日間は無休だった。この日、18件の相談が寄せられ、うち14件は40~60代の夫を持つ妻からの電話だった。

 それでも労災認定の壁はなお高かった。労災と認めない労基署の決定に納得できない遺族は、その取り消しを求めて国を相手に裁判を起こすしかない。松丸さんらは88年10月、新たに「過労死弁護団全国連絡会議」を結成し、裁判支援を強化した。タイムカードや同僚らの証言などを積み重ねて長時間労働の実態を訴えると、裁判所が労災と認めるケースは増えていった。

 こうして勝訴判決を積み上げた結果、労災認定基準はさらに緩和され「発症前1週間」は01年に「発症前6カ月間」になった。22年度の脳・心臓疾患の労災認定率は38・1%。「遺族がへこたれずにチャレンジした結果、救済の道が広がっていきました。弁護士は遺族の同伴ランナーだと思っています」

「理不尽さ」に突き動かされて

過労死110番が30周年を迎えて行われたシンポジウムで講演する弁護士の松丸正さん=大阪市中央区で2018年4月12日、猪飼健史撮影
写真一覧

 もちろん成果を収めるだけではなく、苦い思いもたくさんしてきた。その中に、夜勤交代制の工場で働いていた50代男性が脳出血で倒れ、寝たきりの状態になった事案がある。残業は月平均65時間程度。「過労死ライン」とされる月平均80時間には届いていなかった。ただ、残業が50~60時間でも裁判で労災と認められたケースはある。この男性の裁判では深夜勤務がいかに負担をかけたかを訴えたが、労災は認められなかった。勤務先を相手に損害賠償を求めた裁判も最高裁まで争って敗訴した。意識が回復しない男性を自宅で介護する家族を思うと、いたたまれない気持ちになった。「良い結果を出せなかった時は責任を感じます。真面目に一生懸命仕事をしてきて、何も救われないのはおかしいし、その理不尽さが自分を突き動かしています」

 松丸さんらが始めた過労死110番はその後、全国に広がり、原則として毎年6月に行われている。その相談内容は時代を映す鏡だ。バブル崩壊後の90年代になると、長引く不況で自殺に関する訴えが増えていく。亡くなったのは若い世代。08年のリーマン・ショックでも景気悪化のしわ寄せは若年層に向かった。仕事で困難を抱えても職場から支援を得られず、追い詰められて死に至るケースが目立つという。そのような社会の変遷を振り返ると「周囲がフォローする態勢になっていない。みんな心に余裕がないのかなあ」とつぶやいた。

 19年に働き方改革関連法が施行され、残業時間の上限規制が始まった。しかし、過労死や過労自殺は後を絶たない。松丸さんが問題視しているのは、勤務先が労働時間を適正に把握していないことだ。厚生労働省は残業時間をタイムカードなどの客観的な記録で管理することを推奨しているが、過労死が起きる職場では労働者の自己申告のみで勤務時間を把握していることが多いという。「簡単に解決できる問題ではないが、個々の被害者の救済を通じて職場のあり方をただしていくことが大事です」と訴える。

 そうした熱い思いは、若手や中堅の弁護士にも受け継がれている。大阪急性死等労災認定連絡会は「大阪過労死問題連絡会」と名を変え、月1回の例会を続けている。弁護士を中心に毎回20人前後が参加し、新しい労災認定基準について学んだり、自分が担当する案件について議論を交わしたりする。

自殺した近畿財務局の男性職員の遺族が国と佐川宣寿・元国税庁長官に損害賠償を求め、大阪地裁に提訴。記者会見する遺族側代理人の松丸正弁護士(左)ら=大阪市北区で2020年3月18日、菱田諭士撮影
写真一覧

 松丸さんは、学校法人「森友学園」への国有地売却を巡る財務省の公文書改ざん問題を苦に自殺した赤木俊夫さん(当時54歳)の妻雅子さん(52)が国などを訴えた裁判で代理人を務めている。弁護団には、連絡会のメンバーでもある生越(おごし)照幸弁護士(53)も誘った。生越さんはこれまでも松丸さんとタッグを組み、数々の裁判を担当している。「訴状を作る際に松丸先生と論点をディスカッションすることで成長できた。弁護士としてのバックボーンを作っていただいた」と感謝している。

 心強い仲間は育っているが、引退するつもりはまだまだない。「相談が来る限りは弁護士活動を続けたい」。今日もどこかで「旅する弁護士」は遺族の声に耳を傾けている。

取材する戸上文恵記者=大阪市北区で2023年12月20日、中川祐一撮影
写真一覧

戸上文恵(とがみ・ふみえ)=大阪社会部

 2005年入社。宇都宮支局、大津支局次長などを経て現職。主に過労死・過労自殺などの労働問題について取材を続けている。

関連記事

  • 【写真特集】資料をバッグ詰め 地裁に向かう松丸正さん

    3/16 17:45
  • 「優しい医者になる」過労自殺で消えた息子の夢

    12/20 07:00
  • 「睡眠、6時間未満」が4割 理想と隔たり目立つ

    10/13 18:39
  • 睡眠、6時間未満が4割 過労死白書、1万人調査

    10/13 14:11
  • 「労災認定なし、浮かばれない」過労死ライン未満

    1/5 18:15
  • 亡くなる前月、息子は突然泣いた 母が体験語る

    12/3 13:30

指数
前へ:将棋:将棋 藤井、タイトル戦V21
次へ:質問なるほドリ:なぜソウルで大リーグ開幕戦? 世界中でファン開拓、韓国になじみの球団=回答・角田直哉