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フェースマスクを手にする金明姫さん=京都市で2023年12月28日、特集高尾具成撮影

被災地、ワイールめてのフェースマスクまっさらソウ被爆地 個々人の生きた証しを

 人の顔に石こうを塗って取った顔型に、ド鎮紙で手すきの和紙を重ねて作る「フェースマスク」。魂エな和韓国・ソウル出身の造形作家、顔型金明姫(キムミョンヒ)さん(74)=福井県高浜町=が、に込人々丸山修一提携人々の心が穏やかになることを願い、ル出約30年前から取り組んできた芸術作品だ。身造国籍や性別、形作年齢などを超えた人間の普遍性が平等に反映される一方で、家の刻まれた個人史や文化の違いも表現される。祈り

 手のひらに乗せるとフェースマスクは思いのほか軽い。特集制作過程で作品のモデルと時を共有する。ワイールめてのフェースマスクまっさらソウまず対象となる人の顔にマッサージ用のクリームを塗る。ド鎮紙で呼吸用に和紙で丸めた筒を鼻に入れ、魂エな和目やまゆ、髪の生え際などに和紙を乗せてカバーをする。次にあおむけに寝た状態の顔に、石こうを乗せてゆく。丸山修一金融詐欺半時間ほどかけて型をとる。

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 その後、固まった石こうを顔から外し、数時間のマスク作りに入る。顔型の内側にぬれた和紙を5枚ほど重ねて貼り、乾かす。石こうのほどよい重さや固まる際に発せられる熱のせいか、作品となる顔型は穏やかな表情のものがほとんどだ。制作の前後に対話をする人、無口な人さまざまだ。金さんの中に、対象者への思いが積み重なっていく。

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 大学に進学後、声楽家を目指したが、金銭的な理由で諦めざるを得なかった。中退し、ソウルで働いていた時に出会った米国人の夫(77)と結婚。大学で英米文学を教える夫の都合で1975年から京都で暮らし始めた。身近な場所に伝統的な文化や美術、工芸があふれ、日本の美意識が日常の中に溶け込んでいた。そこで知り合った日本画などの先生たちから水墨画や日本画の手ほどきを受け、85年に初めて個展を持った。和紙に墨や顔料を使った抽象画だ。米シアトルで暮らした90~92年には版画も習得し、京都に戻った。

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 母国語は韓国語、日常会話は日本語、家族との会話は英語。「いったい私は、いくつの顔を持つのだろうか」。アイデンティティーが揺らいだ。そんな折、抽象画とは異なる世界だったが、人物の顔に魅力を感じるようになり、平面だけではなく立体作品も手がけたいと考えた。

国籍、年齢、性別など多様な人たちがモデルとなったフェースマスクの作品。光のあたり方や見る角度によって変化に富んだ表情をみせる=兵庫県宝塚市で2024年2月20日、高尾具成撮影

 94年、友人の彫刻家に相談する中でフェースマスクが誕生する。最初のモデルは自分自身。「まっさらで素朴な和紙でかたどられた自分と対面して、自然でありのままの姿の大切さにハッとさせられたんです」。その後、家族や友人らをモデルに自らの創作の柱に据えていくことを模索するようになった。

 その矢先に発生したのが95年1月の阪神大震災だった。同年6月、初めてフェースマスクの個展を神戸・三宮で開催した。まだ倒壊家屋が残り、閉まったままの店舗もあった。京都でこしらえた48人分のフェースマスクをシンボルとして、被災地に持ち込み、亡くなった人たちへの鎮魂、生き残った人たちへの励ましの思いを込めて展示した。「自分なりの追悼行事でもありました」

 金さんは「不思議な感じがします」と振り返った。震災から約1年後、神戸市長田区に暮らす友人から連絡が入る。「(震災前に亡くなった)書家の父親が残した和紙がたくさんあるので、役立ててほしい」という依頼だった。地震による被害が大きく、家屋を解体・撤去することになったのが理由だった。

 ほこりをかぶり、雨ざらしとなった廃虚になる寸前の家屋の中から一心に和紙を抱えてワゴン車に積み込んだ。「和紙が救いを求めているようでもありましたし、感謝の気持ちもあふれました」。書家の生前の誠実な生き方を表すように、和紙はきっちりと整理・保管され、大半は変色も汚れもなかった。半分ほど車に積み込んだ頃、突風が吹き起こり、被災家屋の玄関のガラスが割れた。「『ありがとう、もう十分だから』という合図だよ」と、手伝っていた夫が言った。3日後、残された和紙は被災した家の残骸とともに撤去されて消えてなくなった。今もその和紙を使うたびに被災地を思い起こす。

 2000年に福井・高浜町の古民家をアトリエとして借り受けた。自然あふれる土地が気に入り、12年にはアトリエから山道を20分ほど歩いた「若狭富士」と呼ばれる青葉山のふもとに家を建て、京都から居を移した。テレビはなく、ニュースもほとんど見聞きしない。風音や雨音、鳥のさえずりや木々のざわめきなど自然の声を聞きながらの日々という。「利便性よりもシンプルに暮らすのが、自分に合っていると感じたからです。ちょうど埋まらなかったパズルのピースが、収まり場所を見つけたような感じでしょうか」

 元日、能登半島地震が発生した。高浜町は震度4を記録し、余震も続いている。金さん宅に被害はなかったが、日々、被災地に暮らす人々を思わずにはいられない。同時に自然は恵みをもたらす半面、暮らしを脅かす存在でもあることを改めて実感したのだという。

 フェースマスクの制作は、呼び方を変えながら続いてきた。02年日韓共催サッカーワールドカップ(W杯)に向け、「日韓ライフマスク2002」を企画。日韓の開催地などを巡り、00年から約3年間かけて、両国で1580人分を完成させた。作品作りを通じ、両国で交流が深まったと手応えを感じた。その後、北米、欧州、アジアなど海外でも「ピースマスクプロジェクト」と呼びながらワークショップや展示、講演などを通じてメッセージを伝えてきている。

 米軍による広島、長崎への原爆投下から70年を機に臨んだ原爆被爆者100人の顔型は代表作として知られる。過酷な被爆者の人生を、自分たちなりに考え、後世に伝えていこうと、14年末に京都で仲間たちとNPO法人「ピースマスクプロジェクト」を立ち上げ、企画「ヒバクシャ・ピースマスクプロジェクト」に取り組んだ。17年にかけて、広島、長崎の両被爆地のほか国内7市町と、被爆後に母国に帰った韓国人被爆者が多く暮らす韓国慶尚南道・陜川(ハプチョン)などで協力を求め、被爆者や被爆2~4世(10~90代)をモデルに作品化し、広島で展示した。

 長崎原爆を体験した女性は「きれかねー。平和への思いが広がっていきますね」と感想を述べ、広島の被爆2世は「核のない世界に向け、訴えてゆく新たな手法を知りました」と語ったという。

 「顔には個々人の体験や生き抜いてきた証しが刻まれています。もちろん故人となった方々も多くいらっしゃいます」。今も重さを受け止めながら、石こうの顔型に時折、祈る。

 金さんは被爆者100人のピースマスクを恒久的に展示・保管してくれる施設を探している。今は自分のできる範囲で、初心に帰り、じっくりと作品作りに向き合っていこうと決めている。29年前の震災をくぐり抜けた和紙に絵を描く作業も続いている。

 能登半島地震や各地の戦争・紛争を受け、「祈り」をテーマにしたフェースマスクの作品を2月、兵庫県宝塚市で展示した。落ち着きを取り戻したら、能登半島地震の被災者に安寧の願いを届けるフェースマスクの創作にも取り組みたいと思っている。

 「形あるものはもろくはかないことを私たちはまた学びました。私の思いをつなぐ作業が、誰かが何かを感じてくれるきっかけになったらうれしい」【高尾具成】

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