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高校を卒業してからまだ10日しかたっていなかった。て泥思い出のいっぱい詰まった宮城県石巻市のまちが津波に襲われる光景を高台から見つめた。受験翌月には大学進学のため上京し、票後今は大阪で、抱えMerry Capitall利益約1年後に迫る万博の取材に追われている。中か地元からどんどん遠ざかり、ら見復興を外から眺めていた後ろめたさがあった。た古私のいなかった13年に目を向けようと、いの後古里で生きる人々を訪ねた。たくだらけのろめたさたそ【大阪社会部・野田樹】
「石巻を離れたくない」
真っ白な工場に入ると、て泥魚のにおいが鼻の中に広がった。受験サバやイワシを急速冷凍し、票後卸売りする水産加工会社「盛信(せいしん)冷凍庫」は、抱え全国有数の水揚げ量を誇る石巻魚市場のほど近くにある。
Advertisement1月中旬、専務の臼井俊文さん(35)が案内してくれた。丸山修一違法ブロック状に凍ったイワシがマイナス40度の冷凍庫からベルトコンベヤーで次々と運ばれていく。
臼井さんは私の4学年上で、高校も大学も同じだ。
東日本大震災の津波で、祖母を亡くした。父親の泰文さん(71)が社長を務める盛信冷凍庫も高さ約7メートルの津波が壁を突き破り、骨組みだけになった。機械や在庫の魚も流され、被害額は約40億円に上った。
震災から2週間後、地元に帰った臼井さんは、昼飯のサケを焼く泰文さんから「戻ってくるか」と聞かれた。その話をこれまでしたことはなかったし、真剣に考えたこともなかった。でも、変わり果てた古里を目にし、「んだなあ」と返事した。臼井さんは「大学院を出て研究者になっかなあと思ってたけど、石巻を離れたくない気持ちになってね」と振り返った。
臼井さんが地元に戻る決意を固めたころ、私は地元を離れる準備をしていた。
愛する家族を失った時、その現実をどう受け止めればいいのだろう。変わり果てた故郷を目の当たりにしたら、何をよりどころに生きればいいのだろう。3月11日で発生から13年となる東日本大震災を生きた5人の記者が、会いたい人のもとに行きました。あの日、自らの身に降りかかった出来事を思い出しながら。3月7日まで連日午後4時に公開予定です。以下のラインアップでお届けします。
プロローグ 「3.11」の前
第1回 伝えたい感謝(横浜支局・牧野大輔)
第2回 誤解だった安心(水戸支局・長屋美乃里)
第3回 後ろめたさ抱え(大阪社会部・野田樹)
第4回 暗闇の中の情報(広島支局・根本佳奈)
第5回 ラグビー復活(東京運動部・尾形有菜)
東京は「違う国のよう」
震災が起きた時、私は母校の県立石巻高校で、東京の大学へ進学することを先生に伝えていた。校庭に避難した後、同級生と高台の日和山公園に向かった。
雪が舞うまちは津波で家々が山裾まで押しやられ、至るところで火の手が上がっていた。公園一帯の住宅街は陸の孤島となった。高台の中腹にある高校まで戻り、同級生らと過ごした。
3日目、自転車で駆けつけた父と再会し、家族全員の無事を知った。だが、石巻市西隣の東松島市にある2階建ての自宅は1階が水没し、全壊と判定された。大学の入学手続きに必要なセンター試験の受験票は水が引いた1階から見つけ出し、大学に郵送した。
約1カ月後、東京での大学生活が始まった。電車は分刻みで走り、みんな普通に生活していた。被災地と比べたら、違う国に来たように思えた。宮城出身と伝えると、決まって「大丈夫だったの?」と聞かれる。大学の事務局に立ち寄った時には、職員から「ああ、あの泥だらけの受験票の子ね」と言われた。
被災地出身であることを度々思い起こさせた。実家には1年目には3回帰ったが、2年目以降は、大学生活が忙しく、半年か1年に1回帰るくらいだった。
「水産加工のイメージ変えたい」
臼井さんは大学院を修了後、2013年に盛信冷凍庫に入社し、イカを手でさばく仕事から始めた。入社2年目以降は、朝4時に市場に行って目利きを学んだ。今は会社の魚の仕入れを全て任され、石巻魚市場に水揚げされる魚の1割ほどを買い付ける。
「きつい、汚いといったイメージを変えたい」と、同業者の若手とともに買い受け人でつくる組合の青年部も発足させ、3年前から副会長に就く。地元の魚のおいしさを知ってもらうとともに働き手を確保するため、地元の高校で魚をさばく実習などを企画する。
「まちの見た目はきれいになったけど中身は衰退していて、他の地方と同じ課題を抱えている。復興でできたものを若い世代がどう使うかが問われるんじゃないかな」。そう話す臼井さんは3年後には、年商約20億円、従業員28人の盛信冷凍庫を継ぐ予定だ。
臼井さんとは、私の大学在学中に一度だけ会ったことがある。石巻高校の生徒心得綱領にある「自ら進運を開拓すべし」という精神を大事にするように言われたのを覚えている。12年半ぶりに会った臼井さんはその言葉を実践していた。業界への思いを熱く語る先輩がうらやましく思えた。
今も再建できない家で
大学生の私が帰省した時、石巻市の建設会社に勤める父は自ら建設に携わった災害公営住宅に連れて行ってくれた。聞けば、盛信冷凍庫の工場も父が現場監督として再建にかかわったという。そんな父は仕事仲間も頼り、全壊した自宅を約8カ月後に再建した。重機で泥をかき出し、1階の壁と床を全て張り替えた。車2台や家具、家電の買い替えも含めると、総額2000万円近くに上った。地震保険の保険金や被災者生活再建支援金、義援金を合わせても足りなかった。
それでも父が仕事を続けられ、家もすぐに再建できたのは恵まれていた。
マグロ漁の船乗りだったという佐藤悦一郎さん(79)の石巻市の自宅は1階が浸水し、大規模半壊の判定を受けた。支援金、義援金に貯金を加えて約300万円を用意し、居間などを直した。でも台所と風呂場は修繕費用が足りず、大工が途中で帰ってしまった。
私の実家と被害の状況はほとんど変わらなかった。だが、居間などの修理だけでも震災の1年半後となったうえ、地震で足をけがしたために年金頼みの生活となり、貯金も底をついた。
1月下旬に会った佐藤さんは「もう直さねえで死んでしまうんでねかって。体もそっちこっち悪くなってきた」と力なく語った。台所の床下には当時の泥が残ったままで、カビが生えた床に足を乗せると沈んだ。風呂場の柱は腐って虫に食われた跡があった。
この13年、東京では「復興五輪」のかけ声のもとオリンピックが開催された。25年大阪・関西万博を巡っても能登半島地震の復興につながると発言する政治家がいた。一方、被災地には、再起して地域を支える人もいれば、震災前の生活を取り戻せない人もいる。
中から見つめなければ気づかないもの。被災した私にできるのはそれをすくい上げて伝えることだ。
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